見えないものを描く──平松恭輔がつくる“静かな熱”

作品を見て、まず印象的なのは、神殿のような建築、儀式のように並ぶ人物たち、そしてその背後に立つ不思議な柱や構造物たち。まるで宗教画のように壮大でありながら静謐、そして記号的でありながら情感ある。画面のなかには、どこか懐かしく、けれど見たことのない“世界”が静かに広がっている。
「“宗教画みたいだ”と言われることもあるんですけど、自分としてはそういう意識は全然なくて。むしろ日本画の構図っぽさは残っていると思います。日本の襖絵とか、余白のとり方の影響はけっこう受けてると思います。」

世界観の出発点──“煙突”が連れてきたエネルギーのかたち

「最初に描きはじめたのは、煙突でした。」
工場が見える自宅の窓から、日常的に煙突のある風景を眺めていたという。その“そびえ立つ存在”に、幼い頃から心が揺さぶられていた感覚がある。外からは内部が見えないまま、上空へ白い煙だけを吐き出しつづける姿——その“排出口”に、目に見えないエネルギーの気配を感じていたという。
「煙突って、見ていて不思議な気持ちになるんです。中で何が起きているのか外からは分からないけど、煙だけは出ている。何かが燃えていて、熱があって、エネルギーがそこにある。その“排出口”としての存在に惹かれていたんだと思います。」

やがてこのモチーフは、作中に登場する人物たちの縦長の帽子へと置き換えられる。
頭上に突き出た形は“煙突”の名残であり、「その人物が生きている——体内に熱や感情のエネルギーが溜まり、外へ放たれている」ことを示している。

さらに画面には、柱もたびたび現れる。帽子=煙突が人物と結びついた一方で、柱はあくまで建築的・象徴的な存在として別に立ち続ける。
作品では、“神”のような存在が直接的に登場することはない。けれども、画面の中には頻繁に「柱」が描かれている。それは、現実の風景において“そびえ立つもの”に宿るとされる不思議な力に着目した結果だ。
「世の中でもよく言われると思うんですけど、“そびえ立っているものには力が宿る”って。お墓の墓石も縦長のものを置いて祀りますし、神社なんかでも柱を建てて、“一柱”って数えたりしますよね。」

文化的背景から “柱”に 目に見えないエネルギーが宿る場所 という意味を込めて描いている。
「柱には何か特殊なエネルギーが宿るような気がしていて、僕の作品ではその象徴として使っています」

そして“柱”はときに、観る者を結びつける装置でもある。何かひとつのものに向き合うことで生まれる一体感、集団としての連帯——そうしたエネルギーそのものが品のなかに可視化されている。
「みんなが何か一つのものに対して向き合える、その一致団結するような感じが面白いと思って。そういう風景を描いてる、って感じです」

古い信仰の祭

想像を促す“余白”という構図

作品には、一定の“余白”が設けられていることが多い。すべてを説明するのではなく、見る人に想像の余地を残す構図を意識しているという。
「全部描いちゃうと説明的になるので、どこか空白みたいなところは意識して残しています」

作品を見る人が“何かを感じ取る”余白として、その空間は静かに存在している。

見えないものを描く──平松恭輔がつくる“静かな熱”

作品を見て、まず印象的なのは、神殿のような建築、儀式のように並ぶ人物たち、そしてその背後に立つ不思議な柱や構造物たち。まるで宗教画のように壮大でありながら静謐、そして記号的でありながら情感ある。画面のなかには、どこか懐かしく、けれど見たことのない“世界”が静かに広がっている。

「“宗教画みたいだ”と言われることもあるんですけど、自分としてはそういう意識は全然なくて。むしろ日本画の構図っぽさは残っていると思います。日本の襖絵とか、余白のとり方の影響はけっこう受けてると思います。」

世界観の出発点──“煙突”が連れてきたエネルギーのかたち

「最初に描きはじめたのは、煙突でした。」

工場が見える自宅の窓から、日常的に煙突のある風景を眺めていたという。その“そびえ立つ存在”に、幼い頃から心が揺さぶられていた感覚がある。外からは内部が見えないまま、上空へ白い煙だけを吐き出しつづける姿——その“排出口”に、目に見えないエネルギーの気配を感じていたという。

「煙突って、見ていて不思議な気持ちになるんです。中で何が起きているのか外からは分からないけど、煙だけは出ている。何かが燃えていて、熱があって、エネルギーがそこにある。その“排出口”としての存在に惹かれていたんだと思います。」

やがてこのモチーフは、作中に登場する人物たちの縦長の帽子へと置き換えられる。頭上に突き出た形は“煙突”の名残であり、その人物が生きている証——体内に熱や感情のエネルギーが溜まり、外へ放たれていることを示している。

さらに画面には、柱もたびたび現れる。帽子=煙突が人物と結びついた一方で、柱はあくまで建築的・象徴的な存在として別に立ち続ける。

柱に込められた象徴性と文化的背景

作品では、“神”のような存在が直接的に登場することはない。けれども、画面の中には頻繁に「柱」が描かれている。それは、現実の風景において“そびえ立つもの”に宿るとされる不思議な力に着目した結果だ。

「世の中でもよく言われると思うんですけど、“そびえ立っているものには力が宿る”って。お墓の墓石も縦長のものを置いて祀りますし、神社なんかでも柱を建てて、“一柱”って数えたりしますよね。」

文化的背景から“柱”にエネルギーが宿る場所という意味を込めて描いている。

「柱には何か特殊なエネルギーが宿るような気がしていて、僕の作品ではその象徴として使っています」

観る者をつなぐ装置としての柱

そして“柱”はときに、観る者を結びつける装置でもある。何かひとつのものに向き合うことで生まれる一体感、集団としての連帯感——そうしたエネルギーそのものが画面のなかに可視化されている。

「みんなが何か一つのものに対して向き合える、その一致団結するような感じが面白いと思って。そういう風景を描いてる、って感じです」

想像を促す“余白”という構図

作品には、一定の“余白”が設けられていることが多い。すべてを説明するのではなく、見る人に想像の余地を残す構図を意識しているという。

「全部描いちゃうと説明的になるので、どこか空白みたいなところは意識して残しています」

作品を見る人が“何かを感じ取る”余白として、その空間は静かに存在している。

あったかい

集団に宿る、目に見えない“エネルギー”

作品には、画面の奥にずらりと並ぶ人物たちが登場する。一見すると似たような姿かたち、同じような帽子をかぶっているように見える。

「一人ひとりに人格があります。同じように並んでいても、よく見ると帽子や色味、形が違っていたりして、全部違うキャラクターです」

「全員に詳細な設定があるわけじゃないんですが。遠目で見ると同じに見えるけど、ちゃんと見るとちょっと違うんだなって思えるようにしています」

感情や背景の設定があるわけではないが、「そこにいる」ことそのものに意味があるという。

「僕自身は集団がちょっと苦手なんです。でも、その“エネルギー”にはすごく惹かれる。」

同じ方向を向く人物たち。その密度や反復のなかに、見えない“集団のエネルギー”を描き出すことが、作品の核となっている。

アイコンのように並ぶ“人々”と、感情の層

「下層(背面側)に並ぶ人物たちは、どちらかというとアイコン的に描いています。」

作品には、感情を前面に出す層と、記号的な存在として配置された層がある。

「感情はどちらかというと上層(前面側)に描いています。下層(背面側)の人々は“記号”に近くて、感情的な要素は前景や上層に出すようにしているんです。人物たちは、感情というより“そこにいる存在”として描いているんです。」

登場人物たちの表情自体は描かれていない。しかし色彩が意味を持ち、感情の層として存在する。静かな絵のなかに“熱”を宿す工夫は、こうした構造からも生まれている。

概念が先にあり、絵があとからついてくる

抽象的なようで、論理的でもある。

「まず言葉があって、そこから絵を描くことが多いです」

制作に取りかかる前、紙に“ことば”をたくさん書き出す。それが作品の軸になり、構成を考えるベースにもなるという。

「フィーリングじゃなくて、概念的に、理屈で描く感じですね」

下描きはあえて簡素なラフにとどめ、完成図は描かない。

構図や骨組みは感覚ではなく論理から導かれる。絵の中には明確な意図がある

ノスタルジー、だけでは言い切れない感情

作品に触れたとき、多くの人に「懐かしさ」や「寂しさ」を感じてほしい。けれどその感情は、決して“悲しい”ものではなく前向きなものだという。

「たしかにノスタルジックだと思います。でも、ノスタルジーって言葉で片づけたくない感情なんですよね。寂しいけれど、どこか穏やかで、一人の時間を楽しむような。そういう空気感が、理想です。」

寂しさと温かさが同居するような、不思議な余韻。

「旅先で見覚えのない風景に懐かしさを感じるみたいな。そういう感覚が理想なんです」

「自分でも言葉にしきれないから、絵で表現しているのかもしれないですね。」

見る人にとって拠り所のようなものではなく、息抜きのような存在になれればいいと話す。

描きながら、自分の中の記憶が立ち上がる

「描いてるうちに、“あ、これってあそこだったかも”って思うことはありますね」

制作に取り組む中で、意識していなかった過去の記憶がふとよみがえることがあるという。明確に「そこを描こう」と意図して始めるわけではないが、描き進めるうちに、どこかで見た風景や過去の空気感が手を通して現れてくる感覚がある。

「たぶん昔通ってた道とか、空気感として残ってるんですよね。描いたあとから“そうだったのかも”って気づく感じです」

そうした記憶は、再現ではなく“空気感”として立ち上がる。それが、作品の中に静かに息づいている。

すべての作品は、同じ世界にある

作品には、ひとつの大きな“世界”がある。異なる構図、異なる建築、異なる人々──だが、それらはすべて同じ世界の一部だという。画面ごとに建築や人々の配置は違えど、すべてがつながった中の“ひとつの場面”であり、異なる風景を描いているだけに過ぎないのだという。

「全部、同じ世界ではありますね。僕の中では。それの、場面が違う、場所が違う、っていうふうに思って描いてますね」

描くことで、その“章”が少しずつ浮かび上がってくる。

「自分の中で概念と理屈は最初にあるけど、描いてる途中に“あ、こういうことが描きたかったんだ”みたいなのが分かってくることも多いでし。」

そう話すように、描くことで自らの内にあるイメージが少しずつ明らかになっていく

「これはあなたですか?」鑑賞者からの問いとその余韻

個展の会場で、ある鑑賞者にこう尋ねられたという。「登場する人物は、あなた自身なんですか?」

個展の会場で、ある鑑賞者にそう尋ねられたことがある。その問いは印象に残るものだった。

「自分ではないかなと思っています、僕は。でも当時あんまりそこを考えたことはなかったんですよ」

「自分を登場させるってどんな感じなんだろう?って改めて考えたのは覚えてますね」

自身の作品に自分を登場させるという発想は、新鮮だった。

「僕はこの世界を俯瞰して見てるような感じのイメージです。物語を読んでるみたいな感じで見ています。」

答えを語りすぎず、考える余白を残す

「タイトルとかはそんなにちゃんとつけないですけど。たまに付けるときは、あまり直接的すぎないタイトルをつけるようにしています」

作品に込められたテーマは、明確に存在している。ただ、それを全て言葉で説明することには慎重だ。作品に説明を加えすぎないように意識しているという。それは、見る人が自分なりに想像できる「余白」を残すためだ。

「説明しすぎないことによって、その人が考える余白になるかなって」

テーマを答えにしたい。自身の答えは明確にあるが、鑑賞した人に自分なりの答えを導き出してほしいと語る。むしろ違う答えが返ってきても構わない。自身の糧にしたいから。

展示会で鑑賞者に自ら話を聞くことも多いという。

飾ってほしいのは、“ふと目に入る場所”

自身の作品が、どんなふうに鑑賞されてほしいか。問いかけると、返ってきたのは「玄関や階段の踊り場に飾ってほしい」という少し意外な答えだった。

「リビングでじっくり向き合うというよりは、日常のなかで“ふと目に入る”ような場所にあってくれたらいいなと思うんです。毎日見るわけじゃなくても、通りすがりに“あ、いるな”って感じてもらえる距離感が好きです。」

日常に溶け込みすぎず、でも確かにそこに存在する──そんな在り方を、絵に託している。

そして、作品は続いていく

今後は、油絵に加えて立体作品や陶芸、さらには大人向けの絵本制作など、さまざまな表現への挑戦も視野に入れているという。

「壺とか立体物も作りたいなって最近思ってるんです。いろんな表現方法でもうちょっとやってみたいなと思っていて」

まだ構想段階ではあるが、媒体を超えて自身の世界観を拡張していきたいという意志がうかがえる。

「表現の軸は変えずに、ちょっとずつ広げていけたら」

すべての作品は、同じ世界線の中に存在している。そしてその静かな世界は、これからも少しずつ、広がり続けていく

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